IN THROUGH THE OUT DOOR(イン・スルー・ジ・アウト・ドア)/ LED ZEPPELIN(レッド・ツェッペリン)

 

IN THROUGH THE OUT DOOR/ LED ZEPPELIN

1.In The Evening

2,.South Bound Saurez

3. Fool In The Rain

4. Hot Dog

5. Carouselambra

6.All My Love

7. I’m Gonna Crawl

※曲目はオリジナルアルバムの曲目を紹介しております。

  1979年8月15日ツェッペリン8枚目のオリジナル・スタジオ・アルバムであり、しかも最後のオリジナル・スタジオ・アルバムとなった「IN THROUGH THE OUT DOOR(イン・スルー・ジ・アウト・ドア)」がアメリカで発売されました。

 発売までにはかなりの紆余曲折があったようです。1977年、ツェッペリンは4月から2年ぶりのアメリカン・ツアーに出ており、チケットも各地で早々と完売となっており、コンサートも順調に行われていたようです。しかし7月にオークランド・コロシアムのバックステージで、ジョン・ボーナムとマネージャーのピーター・グラント、リチャード・コールらが些細な事から警備員を暴行し逮捕される事件が起きます(それぞれ250ドルの保釈金を払って保釈され翌年2月執行猶予判決が出て、皆実刑を免れています)。
 不幸なことに、その数日後ロバート・プラントの5歳になる息子のカラック・プラントが腹部感染症により急逝。悲嘆にくれたプラントは急遽帰国し、以後しばらくの間公衆の面前から姿を消すことになります。ツアーの残り7公演はキャンセルされ、レッド・ツェッペリンは長い活動休止期間に入ることになるのです。

 そして、長い沈黙を破って発売されたの「IN THROUGH THE OUT DOOR(イン・スルー・ジ・アウト・ドア)」がこのです。

 実は、ツェッペリンが活動中止している間に音楽界ではパンク・ロックをはじめとしたいわゆるNEW WAVEのロックが注目を集めるようになり、今までのハード・ロックはもう古いという風潮になって来ていました。一向に活動を再開しないツェッペリンもいつしか解散説がまことしやかに囁かれるようになり、このまま自然消滅するのではないかとも言われていたのです。実際、プラントの失意はかなりのものだったようです。しかし、978年5月にメンバーは一堂に会し、1カ月にもわたるミーティングが行われ、バンドを継続する意志が確認されたそうです。同年の11月~12月、メンバーはスエーデンのストックホルムのスタジオでレコーディングを決行。プロデュースはやはりジミー・ペイジ。

 アルバムを詳解するにあたり、まず触れておきたいのがこのアルバムのジャケットのアートワークです。デザインを手がけたのは前作も手がけたアート集団のヒプノシス。

 中のジャケットは彼らのデビュー・アルバム以来のシングル・ジャケット(見開きでない、レコードをジャケットの間にポコっと入れるだけのジャケット)なのですが、中身のジャケットを覆うように渋紙の包装紙で包まれています。茶色い紙袋に入れるというアイディアは、ピーター・グラントから「ツェッペリンなら茶色い紙袋に入れたって売れる」と言われ、「だからその通りにしてやったら彼の言うとおりになったって訳だ」とヒプノシスのデザイン・スタッフのストーム・トーガソンは語っています。

 表面は曲名とスワンソングスのロゴが、そして裏面にはバンド名とアルバム・タイトルが印刷されています。

 (発売前から、今度のツェッペリンのアルバムはジャケットの種類が1種類じゃないらしいということが話題になっていたので)中はどうなっているのかをワクワクしながら開けると、なんと・・・

 ジャケットの種類は6種類、どのジャケットが入っているかは開けてみてのお楽しみ

 1950年代頃のバーのカウンターに座っている男が一人(顔ははっきり見えないが東洋人っぽく見える。モデルはトーガソンの友人であるという)、バーのいろんな角度から撮られた写真。セピア色の写真がブラッシンングされた部分がなぜかかすかにカラーで見えている不思議さ。文字は全くありません。

その謎を解き明かすのがレコードが入った内袋。

 そのバーのテーブルの上の情景らしい、灰皿や割れたグラスなどが黒のインクで印刷されています。このインクが特殊なインクで、なんと水に濡らした筆でこすると絵の具が溶け出して、カラフルになるという凝った趣向になっています。ジャケットのブラッシングされたところだけカラーになっている意味がこれで理解できました。

 こんなすごいことが出来るのも、ビッグ・セールスが期待できるアーティストであればこそでしょうね。

 マニアの人なら6種類全部のジャケットを揃えたいところでしょうが、どのジャケットが入っているかは開けてみないと分からないので、断念したかたも多かったのでは。ちなみに私が買ったアメリカ盤の輸入レコードは2種類目でした。

 アメリカ盤はこのような形で発売されていますが、日本盤とかは予算の都合で多分一種類のジャケットしか発売しなかったのではないでしょうか?特殊インクの内袋もおそらくアメリカ盤と同じものを輸入して使ったんじゃないかと思います。

 理解しがたいのは 「IN THROUGH THE OUT DOOR(イン・スルー・ジ・アウト・ドア)」というアルバムタイトル。“the out door”は通常の文法で訳すと“出口の扉”となり、直訳すると「出口の扉を開けて中に入る」という意味になります。つまり、いつもとは違う方法であることを示しているのではないかという説が多いようです。
 実際、このアルバムはいつものペイジ主体でなく、いつもは縁の下の力持ちのジョン・ポール・ジョーンズが全7曲中6曲のコンポーズに携わっており、プラントとともに造り上げたアルバムで、かなり色の異なるアルバムに仕上がっています。レコーディング当時、ペイジがドラッグの影響で、またボーナムがアルコールで体調不良ということがあって、こういう形を取らざるをえなかかったことが大きいと思います。

 このアルバムでは、前作の「PRESENCE」では登場しなかったキーボードが全曲にフィーチャーされており、その際使われたのが当時の最先端・最高峰と言われたYAMAHAのシンセサイザーGX-1
 YAMAHAは、それまでは同時に2音以上の音が出せなかったシンセサイザーの欠点に注目し、同時に複数音が出せるマシーンに改良し(このGX-1は同時に1列のキーボードで8音まで、3列で系24音まで出すことが可能)、シンセサイザーの可能性を大幅にアップし、世界的に注目されました。総重量約250kg、価格700万円という豪華さから、当時はドリーム・マシーンと呼ばれていました。
 シンセサイザーの存在を知らしめたエマーソン・レイク&パーマーのキーボード奏者のキース・エマーソンもコンサートで使いはじめ、スティーヴィー・ワンダーも公演で日本に来た際、この楽器に触れてたいへん気に入り、彼の代表作となった1976年の2枚組のアルバム「キー・オブ・ライフ」ではGX-1が全面的にフィーチャーされています。
 私も当時このGX-1の存在を知って、凄い楽器が出来たもんだ、日本の会社の技術はすごいなあと感心した記憶があります。今でこそデジタルの技術で様々なサウンドをかなり簡単に人工的に作り出すことが可能になっていますが、当時のアナログのマシーンでいろんな音が出せた、しかも和音を出せることができるようになったことは画期的なことでした(まさに楽器というよりマシーンと呼ぶにふさわしいと思います)。

YAMAHA GX-1

 その後、ツェッペリンのコンサートでも、このGX-1が使われるようになり、それまではメロトロンで演奏されていた“天国の階段”等のパートをジョーンズはこのGX-1を使ってプレイするようになりました。

 前置きが長くなりましたが、各曲をみていきたいと思います。

 1曲目 イン・ジ・イヴニング – In the Evening。この曲のオープニングはペイジがギターにギズモトロンというエフェクターをつけて演奏しているそうです。

ギズモトロン

 上の写真でも分かるようにギズモトロンはギターのピックアップ部分に直接付けるアタッチメントで、ギターでバイオリンのような音(倍音も出る)が出せるようになるそうです。ピックアップ部分についた黒い鍵盤のようなものを押さえることで、ギターをはじいた時のピッキング音が削除された音が出るため、バイオリンのような音が出るそうです。このギズモトロンは当時は問題も多く、その中でも気温や湿度などの条件が異なると弦のこすれる倍音が上手くでなかったり、モーターのノイズを思いっきりピックアップが拾ってしまうなどトラブルが頻出していたようです。
 ツェッペリンというバンドが常に最先端の新しい物を追求していた証左のようにも思えます。
 オープニングはGX-1のシンセサイザーの音も入っており、幻想的な雰囲気作りに一役買っています。

 終わりを告げようとする男女の愛を夕方になぞらえて歌った孤独な歌です。

 ペイジはフェンダーのストラトキャスターを使いアーミング奏法(トレモロ・アームを動かし音をビブラートさせたり、アームを上げてピッチを上げたり、下げてピッチを下げるなどの弾き方)を駆使しています。ボリュームを上げて聴いているとギター・ソロの最初の部分では、トレモロ・アーム・ユニットのバネのきしむ音まできこえて来ます。

 ミドル・テンポながら曲調はオーソドックスで、ツェッペリンっぽいサウンドと言っていいと思います。ペイジの弾くフレーズが何度もリピートされて、耳に残りついつい口ずさむようなメロディに仕上がっていると思います。

ページのプレイ

 ギブソンのギターを好むペイジですが、アーミング奏法が必要な場合はフェンダーのストラトキャスターを使っていたようです。前作の“For Your Life”でも使われていました。

 ちなみにライブではこんな感じで演奏されていました(動画は1979年のネブワース・フェスでのもの)

 1曲目を聴いて、ツェッペリンは相変わらず王道路線で安心した~と思って聴いていると2曲目からは雲行きが怪しくなって来ます。

 ってことで2曲目サウス・バウンド・サウレス – South Bound Saurez。タイトルの“Saurez”のスペルは間違いで“Suarez”(南米のウルグアイ南部にあるカネロス県の地名らしい。正しいスペルだと“スアレス”らしい⇒正しくはホアキン・スアレス)が正しいのですが、今まで訂正されていません。コンポーザーにペイジの名がなく、プラント=ジョーンのクレジット。ドラムとピアノの音が16音符の連打のせわしない曲。ハード・ロックというより同じシャッフルのリズムが繰り返されるブギータイプの曲です。ホンキー・トンク風のピアノはオシャレです。
 ホーン・セクションでも入ればいいなと思っているタイミングでギター・ソロが入ります。なかなかのセンスです。ツェッペリンらしくないタイプの曲ですが、エルビス・プレスリーが大好きなプラントのソロならありタイプの曲と感じました。
 内容はかつての“Black Dog”の内容を少し薄めたかなりエッチな歌で、プラントが書きそうな詩です。

 冒頭部分だけ訳すと「そそるようなその歩き方 たまらないぜ!」ってな感じ(興味ある方は「サウス・バウンド・サウレス 訳」でググると出て来るので調べてみてくださいね。

 最後の部分に「シャラララ♪」というコーラスが入るのがツェッペリンらしくないののですが、このアルバムは何でもありのようです。

 3曲目のフール・イン・ザ・レイン Fool in the Rainは意外にもサンバのリズムを取り入れた曲。ホイスル音が二度も入る。ドラムとしてはシャッフル感を出すためにワイヤーブラシを使いたいところだと思いますが、ボーナムはそれを行わず、独自のリズムを力強く叩いており、これが心地良い(それがツェッペリンの一番の魅力です)。ペイジはオクタ-バーというエフェクト(弾いた音のオクターブ低い音も合わせて出すもの)を使い重低音をフォローしています。この曲の演奏にはジョーンズのピアノが必須のため、ステージで演奏する時のベース音を考えて使ったものと思います。
 意外にもアメリカ他数カ国でシングルカットされ、アメリカのビルボード・チャートで最高21位まで昇ったというから当時のZEPの人気の凄さが分かります。
 歌の内容は去って行った女の話。

 4曲目。ホット・ドッグ – Hot Dog。IVの中に“BlackDog”という曲がありましたが、イギリス全土では“Black Dog”というと黒い犬の姿をした不吉な妖精のこをいうそうです。ヘルハウンド (Hellhound)とも言われ、非常に不吉なことから、イギリスでは“Black Dog”は非常に不評だったようです(歌の内容は全然違うのですが)。
 そういうこともあってか“Dog”のつくこの曲はC&Wタイプの明るい曲に仕上げたようです。イントロのペイジのギターがあまりにずっこけているので、レコーディングしていたころのペイジはかなり体調がよくなかったと推察されます。それも含めて、この曲は愛嬌と思っていいのかとも思いますが、彼らは結構この曲をコンサートでも毎回演奏していたのですから、気に入っていたのかも知れません。
 ちなみにこの曲もペイジはコンポーズに携わっていません。
 歌詞の内容はやはり去って行った女です。いなくなった彼女を探して回る男の歌。

 5曲目。ケラウズランブラ – Carouselambra。レコードだとここからB面になります。ジョーンズが作曲したテクノポップ調の曲。タイトルは、イントロがメリー・ゴーランドの音楽に似ていることから付けられたというが意味不明。歌詞の内容も実は分かるようでよく分からない。プラントが詩を書いたそうだが、ある特定の人物をイメージして書いたと言われています。その特定の人物は当時クスリづけだったペイジだと言われています。
 テクノのリズムと言えば、通常は打ち込みかYMOの高橋ユキヒロのような無機質なドラムであるべきで、この曲は残念ながらボンゾーの魅力を消してます。ジョーンズが新しいシンセサイザーを手に入れてこういう最新のテクノを演っていたかったってことなんでしょうかね?

 6曲目。オール・マイ・ラヴ – All My Love。この曲もプラント=ジョーンズの共作。プラントが幼くして亡くなった息子の追悼歌として詩を書いたそうです。

 「俺の愛のすべてを おまえに」そのタイトルがこの曲を表しており、何度も“ All My Love”というフレーズが繰り返されています。シンセサーザーがオーケストラっぽい重厚なサウンドを奏でています。
 私はかなり好きな曲です。 なのにペイジはこの曲がなぜか大嫌いだったようで、シングルカットさえされませんでした。でも、1980年のラスト・ツアーでは演奏されてたようです(以下の動画の音源はライブ演奏らしく見せていますが、ライブのものではありません)。

 そしてアルバム最後の曲、アイム・ゴナ・クロール – I’m Gonna Crawl 。好きな女性への一途な愛を歌った歌。これもジョーンズが中心に作曲したブルース・ソングですが、曲にはペイジも携わっています。ペイジのうら悲しいソロが、なぜかバンドの末路を感じさせます。ボンゾーはこのおプラントの歌を「過去最高のパフォーマンス」と絶賛していたそうです。

 1979年8月15日全米では、アルバムが発売され、発売当初、評論家たちはこぞって、酷評し「大して売れないだろう」と書き立てたが、フタを開けると7週連続全米ではアルバム・チャート1位となり、その売れ行き好評の影響で11月27日にはレッド・ツェッペリンのアルバム9作すべてがアルバム・チャートのトップ200に登場するという快挙まで作ってしまったというから、アメリカでのZEPの人気ぶりが理解いただけるかと思います。

 当時、アメリカ盤レコードを入手して聴いた時、正直ツェッペリンらしくないし、地味なアルバムだなと思いました。いいと思う曲も何曲かあったし、否定するつもりもなかったのですが、何度か聴いて聴かなくなったアルバムでした。

 The Rock and Roll Hall of Fame(ロックの殿堂)のバンドの伝記には、『1970年代のレッド・ツェッペリンは、1960年代のビートルズと同じ影響力があった。』と記載されており、、ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」もビートルズに次いで2位に選出されています。

 彼らは、このアルバムを実験的なアルバムと捉えており、ジョーンズは「僕らに何ができるかを見極めるためにいいアルバムだった」と語り、ペイジはボンゾーと「次はもっとリフ志向のハードなアルバムにしよう」と話し合っていたといいます。ところが1980年9月25日にボーナムが32歳の若さで急死したことにより、バンドはあっけなく終焉を迎えることとなり、結果的にこのアルバムが彼らの最後のオリジナル・スタジオ・アルバムとなったのでした。

 ボンゾー以外にバンドに合うドラマーはいない。「彼なしでのバンド継続は無理」・・・メンバーが潔く解散を決定したのです。・・・

 LED ZEPPELINを語るとき、ハードロックの重鎮という形で語られることが多いと思いますが、彼らは常に音楽的に時代の最先端であろうと模索し、プログレッシブ・ロックの要素を取り入れたり、シンセサイザーを使ったりと前向きに前進していたバンドという気がします。いつも守りでなく、新しいことを模索していたからこそ、入れ替わりの多い音楽業界で11年間もトップで活動して来られたのだと思います。最後のほうは不幸続きで残念でしたが、彼らが残した業績はその後の音楽界に大きな影響を与えていることは間違いないと思います。